「源氏物語幻想交響絵巻」は、語り部による雪の降る晩の夜話で始まる平安シンフォニーとして描きました。源氏物語は世界最古の長編小説といわれているだけあって、様々に織りなす人間模様をめくりめくっていくと膨大な量となりますので、ハイライト部分に絞って作曲を進めました。それでも一時間半という長いシンフォニーとなりました。
各トラックには組曲のようにタイトルが一応ついていますが、私としましては、1時間半に繋がった一つのシンフォニーと考えています。全編にわたって、京ことばによる語りが聴き手を源氏の世界へと誘いますが、音楽とも物語とも区別がつかない不可分なものとして作品を構成しています。
源氏の誕生をめでる序の曲
そしてついに藤壺は源氏の子供を宿してしまいます(宮の御帳台)。
源氏の父である天皇(桐壺帝)はその事実を知らず、ことのほか喜ばれました。
しかし、藤壺は罪悪感にさいなまれ、日に日に体調を崩していきます(庭園)。
優しい天皇は藤壺を元気付けようと、宮中で「管弦の宴」を催します(管弦のお遊び)。しかし 源氏と藤壺の心中は、宴の間も胸が張り裂けるような複雑な思いです。
やがて藤壺は源氏にそっくりの御子を産 みます。天皇の桐壺帝はことのほか喜ばれ、冷泉帝と名づけ、膝に抱いて可愛がられます。藤壺は、なおも良心の呵責にさいなまれ、やがて出家をしてしまいます。つまりこの世との縁を断つということでした(世の中は…)。
源氏の后となった葵の上(葵の上)と愛人で ある六条御息所(六条の御息所)との軋轢は、現代社会においても、しばしばよくある出来事のように思えます。葵の上の方はお美しいのだけれども、どこか人を寄せ付けず、さりげない仕草でも人を見下している感があります。
六条御息所はよく舞台や映画で嫉妬深いオカルト的悪女に描かれますが、原作をよく読めば、必ずしもそうでもなく、この物語の中で最も人間らしい感情が理解できる女性で、読者のファンも多いようです。ただ物事をつきつめ過ぎて考えるところがあって、歳の差も源氏と似合わないことから二人のことが世間に知れることを憚っています。
賀茂の祭りの日が来ました。源氏は馬に乗ってその斎王の行列(斎王の行列 車争い)に参加しますが、それは源氏にとっての晴れ舞台で、それを一目見ようと、六条御息所は早々と出かけ、良く見える場所に、お供といっしょに牛車を止めて待っていました。慎ましやかさからなのでしょうか、なにか引け目があるのでしょうか。場所は少し後にひかえたところのようです。
徐々に牛車が集まってきました。だいぶ時間が経ってから葵の上の一群がやってきて、六条御息所のお供を立ち退かせながら強引に前に車を止めたため、六条御息所はなにも見えなくなりました。 お供たちが怒り出し、そこを移動するように怒鳴ったところ、動こうとしないどころか逆に奥へ追いやられてしまい、有名な「車争い」(斎王の行列 車争い)となりました。若いお供たちはみんなお酒を呑んでいたため、大喧嘩となりましたが、多勢に無勢で葵の上のお供にことごとくやられ、六条御息所の牛車は柄を折られて壊され、公衆の面前でたいへんな屈辱にあわされました。
それにもまして六条御息所の胸の内を激しく乱れさせたのは、「源氏の君は駒を止めることもなく、そ知らぬ顔をしてお通りになった」ということです。
六条御息所は「人を恨み憎むということは、はしたなく浅ましいこと」と一生懸命自分に言い聞かせ心を鎮めようとしますが、「一途にさまよい出た魂が鎮まらへん」と自分自身を悩みます。それも実に凄惨な幻覚を見てうなされます。「ああ、鎮まらん、悔しい。ああ、浅ましい」と自責の念にかられ、やがて「髪をつかんで引きずりまわし。打ちのめし。ああ、鎮まらへん」(生霊)。
これは六条御息所の本音と思われますが、私はサラウンドでは後部スピーカーからその六条御息所の本音の方の声を出しました。この部分はぜひサラウンドによる立体音で聴いていただきたいです。
ある桜の咲いている春のうららかな日に、源氏の邸宅六条院に柏木の衛門督(えもんのかみ)や、夕霧(源氏の息子)たちが蹴鞠をしに遊びに来ています。そこで二匹の唐猫もじゃれながら遊んでいます。女三ノ宮は幼さはあるけれども、源氏にとって葵の上の後の二度目の正妻になりました(女三ノ宮) (紫の上(若紫)は正式な結婚手続きを踏んでいないので正妻とはいわない)。しかし、あまりにも美しいので柏木は以前より女三ノ宮に横恋慕をしていました。源氏は紫の上の体調が悪いので、そちらに気を取られていた隙に、柏木は女三ノ宮のところへ忍び込みます。それは一度や二度ではなく、やがて柏木の子供を宿します。
恐ろしいことです。源氏は、その子を自身の子として認知をしなくてはなりません。 柏木の子供を自分の子供として源氏が抱いている有名な絵が徳川美術館の「国宝 源氏物語絵巻」にあります。 かつて源氏は、自身にとって継母にあたる藤壺に恋し、ついに藤壺は源氏の子供を宿した事実。いまは亡き桐壺帝はその事実を知ってか知らずか、その子を膝 の上に抱き、冷泉帝と名づけました。 その因縁が廻りまわって、いま源氏がまったく同じ目にあうことになります(藤壺を想う)。その子供が後の「浮舟」に出てくる薫です。
紫の上の容態は更に悪くなり、ついには六条御息所の死霊が取り付いて来ました(御息所の死霊)。これには理由がわかりません。ただひたすら源氏が恋しく成仏できないので現れてきたようにも思えます。
紫の上は10歳のときに源氏の邸宅にさらわれ、源氏の理想の妻になるように教育されたため、完全に源氏の支配にありました。しかし、源氏は他の女性とのあまりにもの放蕩ぶりがたたり、官位を取り上げられ、須磨流稿となり、明石に流されることになりました。紫の上とは涙ながらの別れをしたのですが、ところが謹慎のはずの源氏は、行った先で明石入道の娘、明石の上に恋し、明石の姫という赤ん坊までもうけました。やがて源氏が京へ戻ってきてしばらくしたとき、その話を聞いた紫の上にはショックだったでしょう。しかも、源氏は、その赤ん坊をなんと紫の上が育てるように命じました。子供がなく育てた経験のない紫の上にです。この源氏の神経というのはわからないですね。
そして今回、女三ノ宮を正妻に迎えると、紫の上の立場はなくなっていきます。女三ノ 宮は幼いので、源氏は后としての教養も紫の上に指導を命じます。六条御息所の死霊に取り付かれずとも紫の上は肺も患っていてやせ細っていきます。六条御息所の何倍もの苦しみに紫の上は耐えてきたのです。
やがて紫の上は亡くなりました。
野原一面に人が立ちこめるほどの荘厳 な葬儀で、六条御息所のメロディーは途中まで源氏を追いかけてきます。狂おしいほど哀しいのです。壮大な太鼓が鳴り響くと、紫の上ははかない煙となって空へ登っておしまいになりました。
源氏は紫の上とのことを想いだしています。女三ノ宮のもとから帰ってきた雪の降る明け方、紫の上はそれに気づいていないようにふるまって、やさしく穏やかに迎えてくれたけれども、衣の袖を涙でぬらしていた紫の上を想うと後悔の念に苛まれたようです。夢であってもよいので、また紫の上に会いたいと(紫の上挽歌)。
憂き世には ゆき消えなんと 思いつつ 思いのほかに なおぞ程ふる
明珍火箸の音は刺すように冷たい雪を表しています。坂田美子さんのすばらしい 歌と琵琶が聞こえてきますが、やがて雪の彼方に消えていきます(歌「憂き世には」)。
こんなに一途で感受性の強い女性がこの時代にいたんですね。浮舟の物語は源氏物語の終盤になります(浮舟)。それまでの 中のどの女性にも似ず、読者を惹きつけます。この話に登場する男性の一人は、名目上は源氏の子供とされていますが、実は女三ノ宮を寝取った柏木の子供の薫。もう一人は明石の姫の子供で、源氏の孫にあたる匂宮、この好色の二人の男性の狭間で浮舟は苦しみます。まあなんというか軽いんですね、この二人の男は。 多少薫の方がインテリで一見真面目そうに見えます が、匂宮の方はさすが源氏の孫だけあって、いわば典型的なプレイボーイ、薫を装って浮舟の寝室に忍び込みます。真の髄まで女性を喜ばせることを知っている匂宮には浮舟はどうにもならなかったようです。不遇であった浮舟にとっては、薫は一筋の光 であったのですが、匂宮の強引さにも逆らえなかったのでしょう。重大な過失におののき苛まれながら時が過ぎますが、ついに匂宮のことが薫に知られるところとなります。薫から送られた恨みの歌に浮舟は衝撃を受け、過去のことは一切なくしたいと思いつめて、雪の宇治川に投身自殺をはかりましたが、親子の兄に助けられます。「なぜ 助けるんですか」と感謝をするどころか浮舟は半狂乱になり、尼がなだめると、ただただ「過去のことを一切忘れて出家をしたい」と言うばかりです。
出家をするには髪を下ろさなくてはなりません。僧侶から「髪を切る前に親御さんのいらっしゃる方向へ向かってお祈りをなさい」と云われると「どっちの方向に父母がいるのかわからない」と言って泣き叫ん だそうです。(出家の笛)
浮舟の最期はいままで映画や舞台ではいろいろと脚色されてきましたが、私は入水をイメージしました。しかも流れは厳しく、どちらかというと雪の保津峡から嵐山にかけての激しい流れで描いたつもりです。
再び冒頭の「桜の季節」の曲になり(再び訪れる春)、 やがて「平家」(「新平家物語」NHK大河ドラマ第10回テーマ音楽)の時代に移ろいゆき、この幻想交響絵巻は幕を閉じます (終曲 平家の世へ)。
冨田勲