大阪、いずみホールで演奏された源氏物語交響絵巻の収録は、冨田先生との最後の仕事であった。
この作品は5人の和楽器ソリストに加え、京言葉の「語り部」が入るという大がかりな協奏曲でもある。オーケストラの中にあって「語り」は生声では聴こえないので必然的にPAが必要である。また、楽曲の中盤で、冨田先生ご自身のシンセサイザーによるコンクレーテ的作品が4chサラウンドでオーケストラと協奏され、まさに冨田ワールドが展開される。全てが規格外の作品で、聴衆は息を呑む様に演奏に聴き入った。
この作品は本稿の執筆時点から5年前の2015年4月に、ようやく収録法が固まり始めた3Dオーディオを用いて収録したが、3Dオーディオは作品のスケール感を表現するのには打って付けであった。
5年前ではあったが、マイクアレンジの主要な部分にはデジタルマイクを使い192kHz24bitによるハイレゾ録音を敢行するなど、考え得る最先端技術を用いて収録し作品が陳腐化しない様に心がけた。DAWなども進化したためブルーレイ化を機に全編トラックダウンをやり直したが、とても瑞々しい音質に仕上げられたものと思う。
さて、クラシックなどのアコースティック音楽を収録する場合、通常のステレオ録音でも必要なことではあるが、明瞭度の高い楽器音(直接音)と芳醇なホールトーン(間接音)をバランスさせることが何よりも重要である。
しかし、ステレオ録音では幾ら工夫しても、その両立には限界がある。それは2つのステレオスピーカに楽音と残響が詰め込まれるために生じる避けられない現象である。 しかしながら3Dオーディオでは複数のスピーカにそれら要素を分散できるため、明瞭度とホールトーンが無理なく両立し、ホールで聴く包み込まれ感や広がり感が伝えられる。ごく大雑把に言えば、楽音を再生するスピーカとホールトーンを再生するスピーカが異なるため、楽音が残響に埋もれないのである。
収録も楽器を狙うメインマイクと響きを録るためのアンビエンスマイクという2種類のマイク群を使い分ける。この2つの要素は、専門的な用語では、オブジェクト臨場感とフィールド臨場感と呼ばれている。そして各々が最適となる様に調整し、再生空間で合成する。なんだか難しく聞こえるが、要するに楽器用のマイクとホール残響用のマイクを使い分けると言うことだ。
私の場合、かのデッカレーベルが開発した、L、C、Rの3本のマイクを仕様するデッカツリーという方式を好んで使う。図-1に示されるメインデッカツリーがそれだ。
もともとデッカツリーは写真-1のように逆T字型のフレームの3つの先端に無指向性マイク3本を配置する方法だが、私の場合ちょっと変形しセンターマイクにはごく近傍に配置したペアマイクを用いている。
その理由は、ステレオミックスを作るときに、1本のセンターマイクを電気的に2つに分けてL-Rへ接続するよりも、近傍ではあるが物理的に2本に分けたセンターペアマイクをL-Rのスピーカに接続する方が自然な広がりが表現できるからだ。因みにセンタースピーカがある5.1chや3Dオーディオのミックスには、どちらか1本を使うか、2本ともハードセンタに接続する。
そして、写真-1から分かる様にデッカツリーの中央から後ろに向けてステレオペアマイクを配置している。
この2本は単一指向性で左右幅30cm開き角90°にセッティングし、サラウンド用のLs、Rsとして用いる。デッカツリーのL-Rバーと同じバーに設置しているが、本当はセンタマイクと反対方向に突き出る様なセッティングが良いかも知れない。これらマイクは左右への広がりを収録する目的で使用している。
ここでエンジニアとして誤解を解いておきたいが、5.1chの場合、Ls、Rsのスピーカ開き角は±110°が推奨されている。これは聴取位置から見ると後ろと言うよりは横である。
サラウンドスピーカは人が前を向いて音楽を聴いているときに左右からの広がり感と包み込まれ感を表現する目的があり、もしこのスピーカを例えば±135°の様な後ろ位置に配置すると、包み込まれ感が減少し後ろから漏れ聴こえる直接音が気になってくる。
もちろん映画の様に「後ろ」を表現したいシーンは±110°では表現しづらいのではあるが、読者の方々で5.1chサラウンドスピーカを後ろに置いている方は、ほぼ横に移動させて音楽を聴いて頂けると音楽そのものの印象が随分変わることに気づかれるものと思う。
さて、さらにデッカツリーの左右にアウトリガー用(図-1のLL、RR)マイクを配置している。
アウトリガーとはヨットなどの舷外に腕木を張り出して取り付ける安定用の浮材のことで転倒防止の役目がある。メインマイクに対して左右に張り出しているのでこの名称が使われているが、ステレオミックスに用いるとメインマイクでは遠くなりすぎてしまう左右の楽器群を捉えると共に、広がり感の向上と質感の向上に寄与する。3Dオーディオミックスでも通常はLLをLに、RRをRにミックスするが、9.1chのシステムではwL、wRと呼ばれるメインスピーカの外側に設置するスピーカに接続するとオーケストラの広がりがリアルに表現できる。
ところが今回のミックスではこの2つのマイクをHL、HRチャンネルに接続した。そう、ハイレイヤスピーカに接続したのだ。
最近の録音では、楽器のリアリティを向上させるために、例えばデッカツリーを2段重ねにして上下のスピーカに接続することによって、楽器の縦方向の立体感を表現する様に努めている。
アウトリガー本来の目的とは異なるが、メインマイクからの距離は2段重ねにする場合に近いので、試しに上方スピーカに接続してみると、マイクを縦方向に2段重ねした場合とは異なるが、それでもオーケストラの質感が向上したのでこの方法を採用することにした。
写真-2は斜め後ろから見たデッカツリーであるが、その右側に小さく吊されているマイクがアウトリガーである。
一方、ホールトーン用のアンビエンスマイクは、ハイレイヤ用はメインマイクから後方約10m、上方約10mの位置に2m四方に無指向性マイクを取り付けたX字状のマイクアレイを吊した。
我々はこのアレイシステムをオムニクロスと呼んでいる。
下層用のアンビエンスマイクは、通常、客席を取り囲む様に配置して歓声と共に収録するのだが、いずみホールでは消防法などの理由により客席への設置が難しかったため断念した。その代わりにオムニクロスの4つの頂点から約3m下に無指向性マイクを垂らして設置することにより、直方体状のアレイを構成した。全て無指向性マイクなので、いわばオムニキューブである。(写真-3)
オムニキューブの下層マイクは客席から10m以上上方にあり、この配置では上下のマイクに対する客席からの距離差が小さいため、歓声のパースペクティブが表現できなり、空中に浮いている様な感じにならないか心配であったが、実際に聴いて見るとそれほど気にはならなかった。本当は近い拍手の音が下層スピーカから再生されると、空間の重心が下がってよりナチュラルなホール空間を表現できる。最も、今回のブルーレイ盤では、拍手は最後の最後に流れるだけなのでパースペクティブ表現はほとんど必要なかった。
オーケストラのスポットマイクは最小限に使用し、ソロのスポットは遠近感を出すためにコントロールしながら使用している。いずれにしても壮大なオーケストラの一体感を表現することに重点を置いてミックスしている。
一つ難しかったのは語りである。
語りは割合大きくPAされているため、その反響が録音されてしまっている。明瞭度を上げるためにはそれなりに大きくしてミックスしなければならない。
大きくすることは簡単であるが、これを間違うとラジオドラマの様に語りとBGM音楽の世界観になってしまう。明瞭度を出来るだけ保ちつつ、源氏物語交響絵巻の中に溶け込む様に細心の注意を払った。
そして冨田先生のミュージックコンクレーテの部分は、普通ならオリジナル音源に差し替えてしまうところ、PAで会場に流れた音を最大限生かしつつ、オリジナル4chは11.1chにアップミックスして作品としての一貫性が出る様に注力した。先生の4chミックスの意図が崩れてしまっては本末転倒なので、オリジナル音源の特徴を理解しつつ繰り返し試聴し、納得できるところを探った。そうやってできあがった「生霊」の部分も聞き所ではあるが、私は「紫の上、挽歌」~「浮世には」の下りで演奏される明珍火箸、これは楽団員約10名がステージ上に散らばり演奏し、ミュージックコンクレーテ部分の明珍火箸と重なるので独特の響きを持つが、この部分が最も印象的であると思う。それは冥界に煌めくスノーダストのように見え、そこに坂田さんの唄の調べが加わって幽玄の世界を創り出している。
本作品はまさに作曲家「冨田勲」の集大成である。
初ミックスをお聴かせしたとき先生は「私の作品は録音のための作品が多く、他の人に演奏してもらえる作品が少ないんですよ。これまで2回発表した源氏物語交響絵巻も録音ありきのプロジェクトで、後世の人が演奏できる様に整備されていなかった。一つで良いので誰でも再演可能な作品としてこの作品を遺すことが夢だったんですよ。」と話された。
本演奏は冨田先生ご自身が演奏会の練習から立ち合い、細かい演奏部分についての指導もされ、5年前に行った編集と仮ミックスもお聴き頂いて合格を頂いた、まさに源氏物語交響絵巻のリファレンス演奏・音源とも言える。作品規模ゆえに再演はなかなか難しいかもしれないが、本音源が世に出ることによって次なる再演に結びつけば天界の冨田先生もさぞ喜ばれるに違いない。
この作品に係われた者としてエンジニア冥利に尽きるというものだが、それは様々な方々より頂いた縁によって実現したものである。その全ての方に対し、感謝の念に堪えない。
株式会社WOWOW
1956年生まれ。1979年九州芸術工科大学音響設計学、1981年同大学院卒。2013年残響の研究で博士(芸術工学)を取得。1981年(株)毎日放送入社。映像技術部門、音声技術部門、ホール技術部門、ポスプロ部門、マスター部門を歴任した後、2017年より(株)WOWOWへ出向。2020年よりWOWOWエグゼクティブ・クリエイターに就任。1987年、放送業界初となる高校野球サラウンド放送のプロジェクトに関わる。2005年より放送のラウドネス問題研究とARIB委員、民放連委員を通じて規格化に尽力した。学生時代より録音活動を行い、特に4ch録音や空間音響について探求を重ね、現在では3Dオーディオ録音の技術開発と共に、精力的な制作や普及活動を行っている。また、個人的にも入間次朗の名前で音楽制作活動を行っており、花園高校ラグビーのオープニングテーマやPCゲームのロードス島戦記などを担当した。